× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 最近、長崎にぶらりひとり旅に行く計画を練っています。 いつも、行きたい、行きたいで終わっていたから今度こそ、絶対に行ってやろうと思います。 長崎は死ぬほど暑いけれど、空も海も花もとっても綺麗な夏に来てね、と友人が言っていたので、夏あたりに行こうかな。 長崎はずっとわたしの憧れの県で、長崎の大学に行こうと真剣に思ったことがあるぐらいで。ただ、学部の関係で諦めちゃったのだけど。 だから、長崎に住んでる方が羨ましい。異国情緒溢れる感じがなんとも魅力的だから。 中学の修学旅行が長崎で、教会も巡ったけれどあの頃はそんなに教会に魅力は感じなかったな。 高校の2年とか3年とかあたりからひどく教会というものに惹かれだしたような気がします。惹かれると同時に、とっても恐ろしい。これが畏怖、というものなのかしら、と思ったり。 わたしは、決してクリスチャンなわけではないけれど、それでも、“祈る”という行為と“祈る場”である教会には何故か頭を垂れてしまう。 人が祈る姿も、祈る場も美しくて、美しいものはそれだけで人を跪かせる力があると思います。 PR 最近、わたしの愛しい我が愛犬に会いたくて仕方がない。 この前、映画を見に行ったときにお家に帰ったから久しぶりにでれっでれに可愛がってきたけど、こうも中途半端に触れ合うと、禁断症状的なアレになっています。 まぁ、順調に行けば今月の中頃には帰宅できるかしらと思っている。 わたしの生命力ってスゴいっ! イチルキではなく、アルシェリをリハビリに選んだのはちょっとまずかった。 アルシェリをふたつも書いたし、よし、そろそろイチルキに戻るか!と思ったんだけど、生憎黒埼くんのキャラが掴めへんで…。 あれ?彼はいったいどんなキャラだったのだ?という状態です。そもそも、口調が分からないという危機的状態にあります。 たぶん、パラレルとかそんなのばっかり好き勝手に書きまくっていた結果だと思われる。 わたしに必要だったリハビリは、文章の書き方うんぬんではなく、キャラを掴みなおすという根本的なことだったのね…といまさら反省です。 でも、アルシェリを書いたのは全く後悔していないという。 だってー、シェリルちゃん可愛いもーん。(もはや、遊びに来てくださっている方のニーズを完全に無視←) ウチに遊びに来てくださっている方で、尚且つアルシェリ派な方が果たして何人いらっしゃるのだろうか…某相互さまの百々様はアルシェリ派でいて下さるのでは…と勝手に期待しているのですが(笑) これで、「私はアルラン派です!」といわれた日には、土下座しに行かねばならぬ。 ずいぶんと久しぶりに妹とふたりっきりでカラオケに行ってきました。 あまりにも、久々すぎて自分の持ち歌が何だったかを忘れていて、そしてそんな自分に衝撃をうけました。 とりあえず、聖子ちゃんを歌っとけ!みたいな。えと、これでもわたしは二十代です、あははは。 あかつき、ですって。 ステキなお名前で。でも、わたしは“あかつき”と聞くとどうしても暁の車を思い出してしまいます。 好きですので、この曲。まぁ、絶対カラオケなんかじゃ歌えないでしょうが。 メッセージを運んで下さるとのことなので、わたしも挑戦してみようかしら?と思っています。 でも、何を乗せて行ってもらう?どんな言葉をかければいいのか、わたしの少ない語彙では思いつきません。 広い世界に、なんとコメントをすればいいのか…何を届けてもらえばいいのか、届けて欲しいけれど、何を?どうせなら、わたしを連れて行って欲しいです。地球はやっぱりあおく、美しいのでしょうか? もう少し、遅く生まれてきたらわたしも簡単に宇宙に行けたかもしれないなぁ。そう考えるとちょっと残念。 でも、もしこれ以上遅く生まれてきてしまったら、廃れていく自然に今以上に嘆かなければいけないだろうから、これはこれで良いかな?と思ったり。 技術は絶えず進歩してゆくけれど、その逆もしかりで。何かを失ってしまっていることを忘れてはいけない。 ほんと、探究心は果てがないから、どこまで行けばいいのか分からない。だれも、知らない。 発見したもの、考え付いたものは実用してみたいね。科学者のその気持ちはよく分かるよ。 “どこまで”の境界線は本当に難しい。 だれも教えてくれないしね。 きっと、これは駄目だったんだ、と気付くときには全て遅いんだよ。残念ながら。 せめて、人間の探究心のせいで苦しむ生き物が少しでも少なければ、と願ってやまない。彼らは関係ないんだよ、毎日母なる大地に抱かれて暮らしているだけなんだから。 もしかしたら、わたし達はもう、母に見捨てられているのかもしれないね。 科学がどんなに進歩しても、母に見捨てられちゃったらもうどうしようもないや。 カーテンが風で膨らむと、わたしは風を見付けた気がします。 見付けた、というより、捕らえた気分かな? 眼には見えないもの、掴むことが出来ないものを自分の目で見て、膨らんだカーテンに触れて掴むのはなかなか気分のいいものです。 だから、まどろむような朝と昼の境目や、昼下がりは大好き さてさて、昨日(あれ?今日かな?)は無事にオリオン座流星群を見ることが出来ました。 ちょうど12時ぐらいに家を出て、しばらくわんこと三人で少し散歩して。 結局、どこかに落ち着こうと家の前に分厚いダンボールを敷いて(何しろ、シートでは冷たかった)空を見上げる。視界に入る光が綺麗で、でも端々に入ってくる電線や、飛行機なんかに空の狭さを改めて思い知らされて。宙はとっても広いのに、空は狭い。 「天然プラネタリウムね」 と言ったけれど、そもそもプラネタリウムは天然のものを真似て作ったのだから、どこまでも広がっているであろう星空にプラネタリウムみたいね。というのは失礼な話かな。 3人で寝転んで空を見上げる、なんてあと何回出来るのかな?と思うと、星は綺麗なのにすごく寂しくなった。 流れる星を見付けるたびに、嬉しいし、“あ、あそこに”と指差すのだけど、何だか埋まらない。 あと10年もすれば、確実にあのこはもうそばには居ない。置いて逝くことを考えれば、あのこに先に逝かれる方がまだ幾分ましだけど、でも、、、 妹はそうね、わたしの方が早く生まれているのだから、順番的にもわたしが先ね。でも、彼女だってずっとそばに居てくれるわけじゃない。そして、わたしもきっと、ずっとはそばに居れない。 彼女が誰かを選ぶまで…それまでは一緒にいてあげたいと思ってはいるけれど。 星は綺麗で、たくさん流れて、 最後に見たやつなんて、わたしがいままで見てきたどれよりも綺麗で、大きくて、とっても満足したけれど、なんだか喪失感が。 こんなふうに毎日を暮らせてるだけで幸せだと思ってはいたけれど、改めてそれを思い知らされると、なんだかちょっと喪失感が付いてきちゃった。 今日、妹と普通に家でお茶をしている時に木星まで行くのに何年かかるのかしら?という話になりまして、、 木星ならまだしも、冥王星(あぁ、もう惑星じゃなくなったのだっけ、)まで行くには何年かかるのじゃ、ってなって、でも、そもそも光年って光の速さの単位なんだから、それでもっても何億光年とかになっちゃうのだから、普通ではムリよねー、ワープが必要だよ、、ってな話しだったのですが、じゃあ、ワープの原理はなんじゃいってなったのですね(なんか文章がぐだぐだ、) たぶん、空間をゆがませる…んですよね?(warpというぐらいなんだから) 空間と空間をねじって切り取って、くっつける…みたいな感じなのかと思うのですが…2人してよく分からず。 インターネットとかで調べれば出てくるのかな?なんて言いつつも、面倒で調べることもせず、首を傾げています。これはあれです、誰かに助けを求めたいと思います。 『だれか!宇宙工学の専門家はいらっしゃいませんかっ!?(お医者様はいらっしゃいませんか風)』 えーっと、ほんと、専門家がいらっしゃいましたら拍手にでもこっそりと教えてやって下さい、 拍手と言えば! 皆さま、たくさんの拍手&メールをありがとうございます!!ほんとにね、こんなにメッセージを頂けるとは思っていなかったもので…感無量です!これからも頑張ろうと気合いを入れ直しました。 お返事はスローペースではありますが、順番に返させて頂いてますので、気長にお待ち頂けたらなぁ。と思います* ほんとに、皆さま、ありがとうございますっ!! こっちに帰ってきて、あまりの肌寒さに正直もうまいっています。 わたし、暑いのはわりと大丈夫なのですが、寒いのは本当にだめなんです、なーんて、この程度で震えているようじゃ、北海道の方にしばかれてしまいそうですが、、(なんて某相互サイトの管理人様、どうでしょうか、) 北海道はとても憧れるけれど、行くなら夏にしないと、リアルに死んでしまう。 肌寒い感じがして、タイツをはきだすとわたしの中ではクリスマスが近付いて来ている気がします。 そして、毎年、今年こそ、教会のクリスマスミサに参加するぞ!と思うのです。 学校がミッション系だったので、クリスマスのミサもしたことがあるけれど、24日の夜にしたわけではないし、神父様(あれ、司祭様?)も来て下さっていたけれど、“本物”のミサではなかっただろうし、、、 本物の教会でのミサは母に連れられて5歳のときに行ったきりなので、行きたいなぁとは思うのですけどね、どーもタイミングが 去年も、クリスマスイブの夜にたまたま教会の前を通って、綺麗にライトアップされたそこに入りたかったのだけれど、タイミングを逃し…いや、べつに行ってもよかったのだけど、(クリスマスイブにひとりでいたという時点で、わたしは可哀想な子決定、) たぶん、聖歌の方は大丈夫だと思います。アデステも、もろびとこぞりてもまだ歌えますから。ご要望とあれば、アヴェマリアもきよしこの夜もメサイアのハレルヤも歌います! というか、長年歌い続けたせいか(…成果?)、この歳になっても有名どころの聖歌は歌えるのです。歌詞はあいまいだけど(笑) そういえば、今日たまたま郵便局に行ったときに“サンタさんに手紙を書こう!”という企画があったのだけど、それってわたしも参加出来るのかしら? サンタさんのモデルになった人、というのもむかし勉強したけれど、サンタさんはサンタさんです!夜にトナカイのひくソリに乗ってやってくる白ひげのおじいさんは、わたしの中では未だにアイドルです。 サンタさんの瞳はいつみても優しげで、大好き、 あぁ、こんなことを書いていたらクリスマスツリーが欲しくなったわ むかし、大叔母がくれたのだけど、そろそろ新しいのを買おうかしら。でも、ハローウィンが終わるまではクリスマスツリーの売り場は出来ませんよね、くすん、 最近は冬が近付いて来ていて、夜が寒くなって来たから空気が澄んで凄く星が綺麗に見えるようになって来ました。 地面に寝転んで見上げてみたいと思い続けているけれど、未だにその願いは叶っていません。 死んでしまったら、どこに行ってしまうのかしら、と思います。 死について、もう何年も前に宗教で勉強したことがあるけど、結局結論は出ないまま、 キリスト教的には神の国の門が開かれて、永遠の命を得るのだと学んだけれど、永遠の命なんていらない、と思うわたしはどこに行けばいいのかしら、 終わりがないというのは、あまりにも苦しい、、 出来れば、わたしとしては、自然にかえりたいと思うのだけど、肉体はかえれたとして、魂はかえれるのかしら。 そもそも、“魂”というものが存在するのかどうか、わたしとしてはあやふやなのだけど、もしそれが肉体とは違うところに存在するのであれば、風になることを希望するわ、 あぁ、でも、もしかしたら、魂と呼ばれるものは、役目を終えたら肉体にとけて、肉体とともに、消えるのかもしれないね。 なーんて、死んだことがないから、わからないのだけど、(死にかけた時は、ただ、真っ白だったということを覚えているけど…これもあいまい。わたしは生きてるからね、) メメント・モリ、死を忘れるなということ。 絶えず、自分が死にゆく者だということを忘れるな。とは言わないけれど、たまにはそんなことを思ってみるのもいいかもしれない。 心は残していきたくないもの。残すのは温かな思い出だけで充分よ そんなことを考えると、宗教というものはどれもすべてメメント・モリに繋がっているのかもしれないね、 キリスト教の祈りの言葉も、仏教の死者に手をあわせる行為もぜんぶ、死ということに繋がっているもの。 |
カレンダー
カテゴリー
ブログ内検索
最古記事
(09/07)
(10/26)
(11/05)
(12/03)
(12/06)
アクセス解析
プロフィール
HN:
紅花
性別:
女性
趣味:
読書・昼寝・散歩
自己紹介:
荒地状態になっている庭をどうするべきかというのが最近の悩み。 紅茶と本と音楽と自然と宗教と世界名作劇場をこよなく愛する人間。 次、生まれて来る時は、木か大地か海の一滴か風か空がいいなぁ。 |